京都「北野天満宮」

菅原道真の物語

東風吹かば匂い起こせよ梅の花主無しとて春な忘れそ

昌泰4年(901年)如月。

菅原道真は左遷の赴任先大宰府へ赴く前日、京の自宅の庭に咲き誇る白梅を見て、こう詠んだ。

道真公が特に愛した桜、松、梅の木々は主が去ることを嘆き悲しんだ。

とりわけ桜はあまりの悲しみに葉を落とし枯れ果ててしまった。

松と梅は後を追い空を飛んだが、途中、松は力尽きて現在の兵庫県須磨区に降り立ち(飛び松伝説)、梅はさらに飛んで大宰府天満宮の本殿前に降り立った(飛び梅伝説)。

道真公は神童と呼ばれ、幼少の頃からその秀才ぶりを発揮していた。

学業に秀で、政治の舞台に上がってからは要職に次々と就き、出世の階段を上がってゆく。

スポーツも万能で弓の腕前は相当なものであったという。

温厚な人で、素晴らしい人柄が多くの人に慕われて、彼は非の打ち所の無い好青年であった。

だが学者肌で、策略をめぐらすような交渉事にのめりこむことは潔しとしない。

いわゆる清廉な人なのである。

仕事ができるゆえに、やっかみ妬みそねみが相当周囲の政敵達に鬱積していたのは想像に難くない。

当時は法律がまだ十分に整備されておらず、貴族政治はいわゆる権謀術数の坩堝(るつぼ)の中にあった。

政治が権力勢力のバランスの上に成り立っているのは、今昔とも同じだ。

時の天皇宇多天皇が道真を寵愛しその実力を高く評価して要職に抜擢した一方で、道真と同様のポストに公卿藤原時平(ときひら)を登用していたのもこの一環なのである。

天皇の治世とはいえ、実際は藤原家が実権を握っており、天皇は傀儡(かいらい)のようなものであった。

ところが、この時平を抜擢したことが、道真と平安の世をとんでもない結末に巻き込んでゆく。

北野天満宮の最初の鳥居をくぐると、参道脇にはつやつやと光る牛の仰臥する像が何体もある。 この牛には謂れがある。

道真公の死後、その遺体は大宰府北東三笠郡の辺りに運ばれることになった。

彼の遺体は牛車に乗せて運ばれていた。

ところが途中にあった「安楽寺」の前で突然、引っ張る牛が立ち止まってびくとも動かない。

同行していた菅原道真の弟子の味酒安行(うまさけのやすゆき)は止む無く遺体をその場に埋め、祠を建てて祀った。

これが北九州にある太宰府天満宮の基となったのである。

故に牛は、道真公の、そして天神様の使いとして後世、全国の天満宮にその像が祀られ参拝客に慕われている由なのだ。

私も黒曜石の牛像のなだらかな背中をさすって本殿へと進んだ。

宇多天皇は道真に、

「朕は、政治はそちに任せたぞ。良きに計らえ。良きに、な。」

と、御所を離れ別荘で優雅な生活ぶりである。

さて、この藤原時平、公卿の出で家柄は申し分ない。

お金もある、いいとこのボンボンである。

ただこの時平、一応仕事もできたようだ。

荘園整備令」を作り、財政再建に奮闘し、政治家としてなかなかの辣腕の持ち主である。

この破天荒の名うてのプレーボーイ時平と、真面目な学者、道真。

考えが合うはずどころか、政策にしても共通点など皆無。

時平は、道真が居ては自分はいつまでもNo.2に甘んじなければならないという嫉妬に終始さいなまれた。

政敵道真を何とかして貶めてやろうと常々思案していたのであった。

ところが、道真が小さな言質を時平に与える事件が起こる。

傀儡(かいらい)とは言ってもやはり天皇は天皇である。

誇りもあるし、長く実権を持って国政を動かしてきた血統の自負もある。

政治の表舞台で道真と時平が火花を散らしていたその裏で、宇多天皇と醍醐天皇の確執もこれまた燃え上がる前の炭のように下ではかっかと赤い火が起こっていた。

宇多天皇は上皇に退位し醍醐天皇に天皇の位を譲ったものの、天皇が持つはずの政治の実権をなかなか手放そうとしなかった。

これでは醍醐天皇は立つ瀬もないし、憤懣やるかたない。

醍醐天皇を取り囲む中下級貴族らはあからさまに、

「宇多上皇もけしからんが、醍醐天皇を立てない道真公も同罪だ」

と、反発の声は次第に高くなった。

しかし、この謀略にはもう一つ理由があった。

カネだ。

道真は財政を中央政府に集約して運用するのを持論としていた。

しかしこれでは、時の実権を握っていた藤原家は、何をするにも政府=道真を通さなければならない。

時平は900年秋のある晩に醍醐天皇の元を訪れて、こう密告した。

「申し上げます。道真が、宇多上皇の子息、斉世親王を皇位に就け、醍醐天皇から地位を奪う謀反を企んでおりまするぞ。」

事は時平の描いたシナリオ通りに運び、道真が無実を弁明するも虚しく、道真の大宰府左遷が決定してしまった。

かつて道真の人となりを高く評価し重用していた宇多上皇はこれを聞くと驚嘆、醍醐天皇の元に駆けつけ面会を求めたが、醍醐天皇はこの面会要請を突っぱねた。

そればかりか、道真の子供4人を流刑にさえ処したのである。

自身の無実を晴らさんとした道真の願いも虚しく、道真は大宰府で極貧の生活を強いられた後無念の死を遂げる。

享年59歳であった。

さて、京の都が大パニックに陥るのはこの数年後からである。

比叡山延暦寺の第13代座主(ざす)「法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)」の夢枕にある夜道真が立った。

「これから私は私を陥れた者共を祟るが、彼らの助けの請願は退けたもうぞ~~」 と、鬼の形相の道真の怨霊は告げる。

道真を左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国(ふじわらのさだくに)」が40歳の若さで急死(906年)。

宇多上皇が醍醐天皇に直訴に赴いたその行く手を遮った藤原菅根(ふじわらのすがね)は雷に打たれて即死(908年)。

時平は39歳で狂死(909年)。

死の床に横たわる時平の両耳から蛇が這い出し、その背後に道真の怨霊が鬼気迫ったのに腰を抜かした祈祷師は手にしていた護摩木を投げ出して逃げたという。

醍醐天皇の皇子で皇太子「保明親王(やすあきらしんのう)」が21歳で急死(923年)。

その後、醍醐天皇の皇太子となった「慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)」が5歳で死亡(925年)。

やがて醍醐天皇も41歳の若さで狂い死にした(930年)。

他にも当時の宮廷が震え上がる天変地異の事件が数多起こり、雷神(天神)となり暴れ狂う菅原道真の怨霊に宮廷内は明日はわが身か、くわばらくわばらと座敷の隅で震える日々であった。

かくしてこの道真の怨霊を鎮めようと建立されたのが北野天満宮なのである。

天満宮建立後ようやく 天神様はその怒りを鎮められた。

今では学問の神様、そして昨今は都合よく受験合格の神様としてありがたく祀られている。

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