日光金谷ホテル

異人たちの足跡 21 イザベラ L. バード

優雅でクラシックな雰囲気が漂う日光金谷ホテルは、日光東照宮の参道近く、渓流大谷川のほとりにある。美しい調度品と豊かな自然に囲まれて過ごす休日に、旅人は身も心も癒される。140年前に外国人向けの宿泊施設として創業して以来、金谷ホテルは、避暑地のリゾートホテルとして多くの賓客を迎えてきた。

木製の回転ドアを通ってロビーに入ると、磨き上げられたカウンターの奥に、古い写真が見える。中央が創業者の金谷善一郎、向かって右が金谷にホテル開業を勧めたジェームズ・ヘップバーン(ヘボン式のヘボン博士)である。振り返って回転ドアの上の長押を見れば、東照宮の彫刻に模した極彩色の彫り物がある。ホテルの中は、格子天井の花鳥画や色ガラスのランプなど、他では見ることのできない豪華な装飾に溢れている。

金谷ホテルの歩み

1871(明治4)年のある日、日光東照宮の笙役の楽人であった金谷善一郎は、横浜から来た外国人に一夜の宿を提供した。善一郎の家に泊めてもらったのは、医療伝道師のヘボン博士で、彼はその日本家屋を大変気に入り、善一郎に、宿を開くことを勧めた。こうして金谷カッテージ・イン(のちに外国人の間ではサムライハウスと呼ばれることになる)が誕生した。その後、1873(明治6)年から1891(明治24)年までの間、ヘボン博士の紹介状を持った外国人たちが次々に日光を訪れ、金谷カッテージ・インに宿泊した。その中の一人が、世界の奥地に足を運んだ、英国の紀行作家イザベラ L. バード(Isabella Lucy Bird)女史であった。

1893(明治26)年、善一郎は日光東照宮の門前に、最新式のホテルを建築した。二階建て30室の金谷ホテルはたちまち人気ホテルとなり、英国公使館のアーネスト・サトウなど、外国人旅行客でにぎわった。1901(明治34)年には新館を増築し、1905(明治38)年に帝国ホテル設計のために来日していたフランク・ロイド・ライト、1922(大正11)年にはアルバート・アインシュタイン、1937(昭和12)年にヘレン・ケラーなど、数々の著名人たちがホテルのレジスターブックに名を連ねた。

庭園散策路

ホテルの中庭に出ると、芝生にテーブルと椅子のセットがある。天気のいい日はここでティータムを楽しむことができる。またその先の庭園内には、二つの散策路がある。裏山の祠に登る道は往復30分、大谷川の岸辺に下る道は10分程で行き来できる。とくに大谷川の畔を歩く道がすばらしい。日光は元々多雨多湿の土地であり、早朝には川面にほのかな霞が立つ。青々と茂った緑の葉は、朝露をのせて陽光に煌めき、遠くの山々は薄墨の重なる絵のごとく、たなびく霧は幻想的である。飛沫を上げて流れる大谷川の轟音のなかで、ふと見上げる朱色の神橋に、時を忘れて見入ることしばしである。

イザベラ・バード

1831(天保2)年、イギリス、ヨークシャーのバラブリッジで牧師の長女として生まれたイザベラ・バードは、生来体が弱く、医者に転地療養を勧められて、23才の時にアメリカ、カナダなどを旅行した。旅に出ている間は体調がよく、バード自身、この頃から旅を生涯の友とするようになった。

1878(明治11)年、47才の時に、バードは未だ西洋人が踏み入れていない日本の奥地を目指して、横浜港に上陸した。そして、外国人女性として初めて、東京から北海道までを縦断した。出発前バードは、約一月をかけて東京と横浜で情報収集と準備を行い、日本通で知られるチェンバレンや、ヘボン博士、アーネスト・サトウなどの知己を得た。

バードと日光

その年の6月10日、いよいよバードの旅が始まった。ガイド兼通訳の伊藤鶴吉とともに江戸を出て、外国人女性に興味津々の、遠慮のない日本人たちの視線を浴びながら、バードは北へ北へと進んでいった。そして6月15日に日光に到着し、10日間金谷カッテージ・インに滞在した。彼女もまたヘボン博士の紹介状を持参した一人であった。バードはUnbeaten Track in Japan『日本奥地紀行』に書いている。

「外観を一目見てうれしく思った金谷邸・・・まさに日本の牧歌的生活がここにはあります。」「二カ所ある縁側はよく磨き込まれており・・・畳は上質で白く、ブーツを脱いでストッキングだけとなった足でさえ、歩くのがためらわれるほどでした。」

バードが泊まっていた建物は現存するが、内部を見学することはできない。だが、日光鉢石の通りを歩けば、バードが著書の中で描いたイラストそのままの、金谷サムライハウスを見つけることは難しくない。

北海道への旅を終えて離日したバードは、上海、マレー半島、カイロを経て帰英した。1889(明治22)年からはチベット、ペルシア、などを回り、1894(明治27)年に朝鮮、中国、そしてその年の暮れに長崎、大阪、京都に赴いた。1895(明治28)年の夏は伊香保温泉で過ごし、1896(明治29)年の夏は、再び日光を訪れている。

このときは結婚して、ビショップ夫人と名乗っていたが、すでに夫は亡くなり、未亡人であった。アーネスト・サトウの日記によれば、8月1日、ビショップ夫人は新築したばかりのサトウの別荘にやって来た。8月5日、サトウはビショップ夫人とベルギー公使の別荘へ行ってランチをご馳走になった後、今度はそこにいた仲間たちを自邸に招いてティータイムを楽しみ、全員連れ立って中禅寺湖でボート遊びをしたという。これが英国風の夏の過ごし方なのかと、感心してしまう。

世界遺産・日光の社寺は、日光金谷ホテルの目の前である。歴史あるホテルで優雅な休日を過ごせば、日光の魅力を2倍、いや3倍深く味わえるだろう。

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